読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

蒼雪庵

いまだに推敲中

 ベビル2匹はロラン達が手強いと知り、標的を群衆に変えた。どうせやられるなら、少しでも多く道連れにしようと考えたのか。やけっぱちのように声高く鳴くと、背中合わせに羽ばたいてあたり一面に炎を吐き散らし、ベギラマを唱えた。たちまち空気が熱せられ、火が燃え移って狂乱する大人、泣き出す子どもで騒然となった。
「いけない、被害が広がる!」
 ロランは歯噛みした。こういう時、自分は何もできない。集団へ襲いかかられると、剣一本では無力この上なかった。
ラリホー!」
 ルナは魔道士の杖をかかげ、ベビル達へ眠りの呪文を唱えた。キッ、とベビル2匹は空中で硬直すると、頭から地上へ落下した。ぐっすり眠りこけているところを、憐れに思いながらも、ロランとランドがロトの剣と鉄の槍をひと思いに突き立ててとどめを刺す。
「終わったか。すぐに負傷者の手当てを!」
 老いてなお背筋は伸び、肩幅も広い賢者アネストは、凛とした声で町長や神官達に命じ、自らも率先して傷ついた人々へベホイミの呪文を唱え始めた。ランドとルナもそれに加わり、ロランは、重傷を負って動けない人を運ぶ役目に回る。
「うわああん! おかあさん!」
 聞き覚えのある声に、懸命に治療に当たっていたルナがはっとした。振り向くと、アレックに支えられた女性がぐったりしている。傍では、あの女の子が泣き叫んでいた。ベビルの放ったベギラマの炎に当たったらしい。女の子が無事なのは、母親が命懸けでかばったからだろう。
「息は?!」
 ルナが駆け寄ると、アレックは絶望的な顔でかぶりを振った。
「かろうじてありますが、これは手の施しようが……」
「私に任せて!」
 アレックが脇に退くと、ルナは両手を女性にかざして精神を集中させた。
「――ベホマ!」
 明るい青い光が女性を覆った。顔や手足、胸などが真っ赤に焼け爛れていたが、ルナの放った治癒の光がたちどころに癒していく。蒼白だった顔に血の気が戻り、女性はぼんやりと目を覚ました。
「――おかあさん!」
 女の子が泣きながら胸にすがりつき、女性はアレックに支えられたまま、娘とルナを見た。
「あなたは……」
「もう大丈夫よ」
 励ましの目に悲しみをたたえてルナはうなずき、立ち上がると、治療を待つ人々の元へ走っていった。

「まさか魔物がまぎれこんでいたとは。最初から仕組まれていたことなんでしょうか」
 今年50歳を迎える温厚な町長は、治療が一段落して額の汗を拭うアネストに話しかけた。
「いいや、偶然じゃろう。以前から町の動向を探るために潜んでおったのじゃろうが、ルナ姫がこうした場をもうけたことに乗じたのだ。魔物の悪意をもって人々に恐れと憎しみを伝染させ、暴動を引き起こしたのじゃよ」
「なんと恐ろしい……」
 町長はいっとき震え上がったが、すぐに顔を引き締めた。そして壇上に上がると、未だ騒然としている町の人々へ声をかける。
「町の皆さん。魔物の襲撃に大変な思いをされたことと思います。しかし、死者が出なかったのは何よりでした。魔物と命懸けで戦ってくださったルナ王女様達へ、どうか皆で感謝を――」
「王女が帰ってこなかったら、こんなことにはならなかったんじゃないか!」
 怯えていた誰かが叫んだ。そうだ、と誰かが賛同した。
「魔物は王女を狙ってきたんだ! 余計な火種を持ち込みやがって――」
「なっ……」
 壇上の町長は口をつぐんだ。魔物の残した悪意の余波は、まだくすぶっているのだろうか。せっかく平和に暮らしていたのに、ここに集まったせいで、不要な恐怖を背負うはめになってしまった住民としては、当然の怒りといえた。だが、それが正義ではない。
 魔物2匹は死んだが、確実に目的は果たしたのだ。ルナ王女の権威失墜と、ロト王家への不信を根付かせてしまった。
「やめんか!」
 一喝したのは、アネストだった。町長の隣に立ち、非難を浴びせる全員を睥睨する。
「魔物は人間の弱みにつけ込む。先刻、ルナ王女もそう申したではないか。利用されたのはお前達じゃ。人間同士でいがみ合い、滅ぼし合うことこそ、かのハーゴンの狙いなのだぞ」
 皆、しんとなった。アネストの横に、人が立つ気配がした。ルナだった。
「それでも、私は自らを責めます。私がここに立たなければ、こんなことにはならなかった」
 ルナは悲痛な面持ちで深々と頭を下げた。言葉を発する者はいない。
 視界には、あの女の子と母親、アレックの姿もあった。あと一歩遅ければ、女の子は母親を失うところだったのだ。
(それでも、私は)
 身勝手だと思う。自己満足でしかないと思う。けれど。
「私の軽率な気持ちが、今回の災いを招いてしまいました。でも、私は自らの思いに正直になりたかったのです。過去に救えなかった人々への償いと、これからも生きる人々を救う力になりたかった……!」
 皆を見つめるルナの白い頬に、一滴のしずくが落ちた。雨だ、と誰かが天を見上げた。いつの間にか曇っていた空から、細い雨が降り注いできた。
「……つめたくない」
 雨を両手で受けとめた女の子が、不思議そうに空を見上げる。それを聞いたアレック達も気づいた。秋の雨なのに、しずくは温かかった。
「これは……」
 ロランとランドもルナの背後に立ち、空を見る。真っ白い空から落ちる雨を受けていると、すさんでいた心が慰められていった。
 ルナは天を仰ぎ、目を閉じた。両目から、悔恨と誓いの涙がこぼれ落ちる。
 そこへ、淡い水色の光が生じた。光は、一滴のしずくの形を取っていた。
 光は、居合わせる全員に語りかけた。

 ――慰め。祈り。たゆたう愛の海は万人の心にあり。されど荒ぶる心は嵐の海に似て、暴虐の限りを尽くすもの。水はすべてを受けとめ、懐に抱く。
 我が名は水。生きとし生けるものを愛おしむ心。慈悲とは、清濁併せのもうとする強き意志から生じるもの……。清き水のみならず、汚濁からもまた、尊き生命は生まれる。

 水の紋章は強く輝くと、ロランとランド、ルナの胸に吸いこまれた。人々は呆然とそれを見ていた。
「奇跡だ……」
 町長が、がくりと膝を折った。それに倣ったかのように、次々と人々がひざまずいていく。
「みんな……」
 ルナがとまどって、立ち上がらせようと口を開くと、アネストが彼女の肩に手を置いて止めた。
「いいんじゃ。敬虔な気持ちが、今は必要じゃ。ここはおとなしく崇められておるがよい」
 複雑な表情で、ルナは黙った。慈雨はいつしかやみ、雲が割れて光が差し込んできた。