蒼雪庵

いまだに推敲中

自作ドラゴンクエストⅡ~悪霊の神々・23

【悪夢こそが我が絆】

 暗い眠りから目が覚めて彼女が気づいたのは、立てない、ということだった。
 両腕と両脚はまっすぐ前に伸び、四つん這いで"立つ"ことはできる。
 だが腰から下の脚で地面に立つことが、とても不自由になっているのだ。
 彼女は何度も後ろ脚で立とうとした……よろよろと安定せず、前に後ろに奇妙なダンスを踊ってしまう。均衡を保とうとした"腕"は、悲しく前に突き出され、上下にしか動かせない。
(これは……私、どうなってしまったの)
 彼女は恐ろしくなり、悲鳴を上げていた。口が上下に動き、腹の底から声が放たれる。喉の奥を通して、それは――
「――ゥワンッ!!」
 彼女はぎょっとした。なぜ、どうして、こんな声が。恐怖は恐慌に代わり、彼女は吠えていた。
 甲高い犬の遠吠えが、ムーンペタの町外れに響き渡った。


 頭の中を占めるのは、まず空腹だった。
 彼女は――ムーンブルクの王女ルナは、今までに経験したことのない飢えに苦しめられていた。
(私はルナ。ムーンブルクの王女、ルナ)
 ひたすら食べ物のことばかり考えようとする思考に、ルナは必死に自分の名を唱えて自我を保とうとした。けれど、小犬になってしまった体は、心さえも支配しようとしていた。
 頭の中で大きく支配しているのは、感情だ。そしてそれを押さえることができない。喜びも悲しみも恐怖も、すべて声となって表れてしまう。
 地面に這った姿では、何もかもが大きい。人の歩く足を避けるのは簡単だ――素早い視力が備わって、動きが緩慢に見えるようになっているから――でも、自分を見おろしてくる人の目は怖い。荷車を引く馬車の音、甲高い子どものわめき声、どこかでケンカしているらしい人同士の殴り合う音――人間だった時より、耳は多くのことを捉え、鋭敏になった神経を苦しめた。
 食堂の勝手口で食べ物を請う野良猫を見て、うらやましく思って近づけば、猫は牙を剥いて追い払ってきた。逃げるしかなかった。
 3日間、町をさまよった。食べるものがなく、水たまりで喉の渇きは癒されたが、限界が近づいていた。
 4日目。冷たい雨が降っていた。寒さに震えながら、ルナは街外れの廃屋にうずくまっていた。疲労と空腹を忘れさせようとしてか、体はひどく眠りたがった。眠れば、いっときはそれらを忘れることができる。
 だがルナは、眠るのが怖かった。眠れば、必ず悪夢が襲いかかってくるからだ。
 3日前に起こった、あの地獄が再現される。
 何度も。


 ルナは、ムーンブルク城の中庭にいた。朝から奇妙に心が落ち着かず、気晴らしもかねて花の世話をしようと思ったのだ。
 袖と裾に赤い縁どりの付いた白いローブに紫の頭巾を被り、せっせと銀のじょうろで水をまく。草花が混み合っているところがあれば、白く細い手が土に汚れるのも構わず、植え替えて見栄えを良くする。
「姫様は、本当に花がお好きですね」
 少し離れた所にそっと立って見守っているのは、ルナの騎士、キースだ。ムーンペタの名士の次男坊で、20歳と若いが、知性と剣術を買われて城に仕えていた。王女付きの護衛は、彼一人である。
 背は高く、長く黒い髪に緑の瞳を持つ白皙の容貌は多くの女性を惹きつけたが、清廉で真面目な彼は、まったく浮いた話を出さなかった。
「何かを世話するのは好き。自分が役に立ってるって思えるでしょう? 私がそうすることで、花達が元気になってくれるのもうれしいわ」
「左様でございますか。よろしいと思います。姫様らしくて」
 キースは穏やかに目を細めた。ルナは立ち上がり、振り返った。陽光に、頭巾から溢れる金の巻き毛がきらめく。深い紅玉色の瞳が、自分を見つめる騎士を映した。
 キースは、幼いころからの話し相手でもあった。ルナが7歳の時に騎士見習いとして仕えはじめ、何度か言葉を交わすうちに親しくなっていった。
 その年から本格的なルナの魔法修行が始まって、ロランとランドという、親戚にして親友の二人に会えなくなってしまった寂しさは大きく、キースはかけがえのない拠り所になっていた。
「……このまま穏やかに毎日が過ぎ去ってほしい」
 手の土を落としながら、ルナはつぶやいた。
「私の魔法も、あなたの剣も、何の役にも立たずにいられたらって……。でも私、怖いの。何かが起こりそうな気がする」
 キースが数歩近づき、ひざまずいて胸に手を当て、言った。
「その時は、お守りいたします。わたくしの命に代えても」
 キースは目を逸らさない。容貌から微笑が消え、青年のまなざしに切なげでひたむきな光が宿る。ルナの胸が甘く痛む。何もかもゆだねてしまいたい衝動を、懸命に押さえる。
 このまま時が止まってしまいそうな、苦しくも甘い沈黙が落ちた。
「キース……」
 お互いの気持ちがそうさせたのか。ふっと緊張が緩んだ。吸いこまれるようにルナが一歩近づき、立ち上がったキースの唇が何かをささやこうとした時。


「おお、ここにいたのか」
「お父さま」
 庭園に、深紅の王衣をまとったルナの父、ヒンメル王が入ってきた。ルナは父に向き直り、優雅に一礼した。キースもルナの数歩後ろで、恭しく礼をする。
 王は、ルナとキースが二人きりでいても苦言を言わなかった。キースの人柄や強さを見込んでいたし、ルナの気持ちも知っていた。いずれ二人を添わせようと、王も将来を楽しみにしていたに違いない。
「……お父さま。昨日捕らえたあの邪教の者……なんだか嫌な感じがしますわ」
 開口一番、ルナは王にそう切り出した。朝から落ち着かない理由は、それだったのだ。
ハーゴンの本拠地を知るためとはいえ、私、とても嫌な予感がしますの。どうか、すぐにあの者を釈放なさいませ。この城に置かれては危険です」
「ふむ……そなたの言うこともわかる。だが、ようやく敵の尻尾を捉えたのだ。少しでも情報を引き出さねばな」
 王は、やや苦渋を眉根に刻んだ。つまり、拷問も考えているということである。ルナは珊瑚色の唇を噛んだ。
 邪教の教祖である、大神官ハーゴンの本拠地は、ロンダルキアにあると王は推測していた。ムーンペタ西の孤島にある古代遺跡の塔に灯台を造り、人を置いて監視させている。
 ロンダルキアは、ムーンブルクからすぐ南に位置する、広大な台地だ。大陸半分もの広さがあり、標高の高い岩山で何重にも囲まれていて、人間が行き来することができないとされている。
 過去、多くの者がロンダルキアへの道を探し、いずれも帰ってこなかった。
 王は各地に兵士を派遣し、世を蝕む邪教の本拠地を暴こうと情報を集めていた。そこでようやく得たのが、鳥人の姿をした空飛ぶ魔物の群れが、ロンダルキアと地上を行き来している、という事実だった。
 大灯台からの報告でも、ロンダルキアの山並みから不自然な黒雲が発生し、各地方へ流れていく、とあった。
 だが、魔物の進軍は空中からだけではない。強い力を持つ魔物の分布は、ロンダルキア周辺から放射状に広がっている。地上からも、魔物を放つ通路があるに違いない。
 王は、その場所を聞き出そうとしていたのだった。
 拷問はむごいことだが、父が何年もかけて得た貴重な手がかりとして考えると、それもやむを得ないのではないか。ルナは自分を納得させようとした。だが、思い出される。兵士達がいずこからか捕らえてきた、そのローブの人物を。
 丸い仮面に二本の角を付けた、あのぞっとする神官を。